「ダム建設の時代は終わった」by米国内務省開拓局長官ウィリアム・ピアーズ
        嶋津 暉之

今から50年前、1967年8月下旬の集中豪雨で、羽越水害と言われる大水害が起きました。
山形県と新潟県下越地方を中心に被害が発生し、死者104名が出ました。

◆羽越水害50年(1)流木次々 家崩れ去る
(読売新聞新潟版2017年08月25日)
http://www.yomiuri.co.jp/local/niigata/feature/CO030612/20170824-OYTAT50045.html

 ドーン、ドーン――。1967年8月28日の深夜、関川村高瀬温泉の旅館「高橋屋」に鈍い衝突音が響いた。夕方から降り続ける雨で、旅館から数十メートル離れた荒川の堤防が決壊し、濁流に流された流木や角材が次々に建物にぶつかったのだ。

 「裏山に逃げてください」。消防から指示があったが、前の道路はすでに冠水し、避難できる状態ではない。「このままでは危険だ」。大女将の高橋久子さん(76)は家族とともに、完成したばかりの合掌造りの風呂場に避難することにした。

 だが、1階付近にはすでに水がなだれ込んでいた。久子さんは旅館2階からはしごをかけて風呂場の屋根に渡ったが、後から来るはずの家族は来なかった。

 その時、家族らがいた建物は激流に流され、崩れ去っていた。旅館2階の一室にいた妹の登久子さん(74)も風呂場に行こうとしたが、濁流にのみ込まれた。「何が起きたのか分からなかった。気付いたら汚水の中だった」。つかまった角材が運良くよどみに流れ着いて、九死に一生を得た。立ち木に登り一夜を明かした。

 電気は止まり、辺りは真っ暗闇。久子さんは風呂場の屋根の上で一人で救助を待った。その間にも流木が次々に衝突する。「もうだめなのかな」と思いながらも、童謡を歌って気持ちを和らげた。
久子さんと登久子さんは日が昇って水が引いた後、川船で救助された。だが、姉夫婦ら5人は海辺で遺体となって見つかった。

 登久子さんは、一緒に流された姉の佳久さん(当時31歳)がめい(当時4歳)を背負い、「この子だけはどうか助けて」と訴えた声が今でも耳から離れない。祖母のコシノさん(当時83歳)は秋田県の男鹿半島まで流れ着き、地元漁師に発見された。

 旅館の建物はほとんど流され、久子さんと登久子さんは料理店を開いて生活をしのいだ。数年後、旅館を同じ場所に建て直し、改築を重ねて鉄筋コンクリートの頑丈な造りにした。

 今でも大雨の度に思い出す。「荒川は何回も氾濫してきたが、羽越水害のときは規模が違った」。2人は口をそろえる。

     ◇

荒川の氾濫で水没した国鉄坂町駅。線路は見えない(1967年8月29日、本社機から)
荒川の氾濫で水没した国鉄坂町駅。線路は見えない(1967年8月29日、本社機から)

 山間部の大雨では、流木が被害を拡大させる。今年7月の九州北部豪雨でも、土砂崩れなどで流された樹木が家屋を襲い、行方不明者の捜索も妨げた。新潟大災害・復興科学研究所の安田浩保准教授(河川工学)は「羽越水害と九州豪雨は川と山が近い点で類似性がある。土砂と一緒に流れた樹木が漂流物として被害をもたらす」と指摘する。

 県内では一部の河川で流木対策が講じられている。県河川管理課によると、1995年に上越地方を襲った「7・11水害」を受け、妙高市の関川上流に流木をせき止める「流木捕捉工」を数か所設置している。


◆羽越水害50年(2)農村 河川整備後回し
(読売新聞新潟版2017年08月26日)
http://www.yomiuri.co.jp/local/niigata/feature/CO030612/20170825-OYTAT50031.html

 羽越水害が発生した1967年は、高度経済成長に伴って治水技術の進歩が始まった頃だ。しかし水害対策はまだ十分ではなく、至る所で堤防が決壊し、約4万5000棟の家屋が床下浸水に遭うなど被害は広範囲に及んだ。

 「堤防を補強していたそばから崩れ、撤退することになった」。羽越水害で加治川の決壊を防ぐ作業にあたった新発田市の加藤洋平さん(74)は振り返る。消防団員として堤防に土のうを積み上げたり、くいを打ったりしたが、うねるような濁流が作業の前に立ちはだかった。

 河川の堤防工事は、戦前はトロッコなどで土を運んで人力で踏み固める作業が中心だったが、戦後、ブルドーザーの導入などで飛躍的に進化した。新潟大の大熊孝名誉教授(河川工学)は「遠くから大量の土を運ぶことができるようになり、強固な堤防を造れるようになった」と話す。60年代後半は、都市部を中心に河川整備の予算も回り始めていた。

 だが、農村部の河川整備は後回しにされた。最も大きな被害を出した荒川を管理する国土交通省羽越河川国道事務所の武藤和明・副所長も「当時は不十分な堤防しかなかった」と話す。

 そこに記録的な豪雨が降り注げば、被害が拡大するのは明らかだった。羽越水害発生時に村上市小岩内で観測した荒川の流量は毎秒約8000トン。当時限界とされた同3200トンを大きく超えていた。

 県によると、水害2日前の8月26日頃から停滞していた前線が活発化。28日夜から豪雨が襲い、胎内川上流域では700ミリ以上の総降水量を記録した。関川村の佐藤忠良副村長(72)は「急にバケツをひっくり返したような雨が降ってきた」と語る。

 羽越河川国道事務所は、羽越水害を受けて開設された。国は荒川を1級河川に指定し、下流を直轄区間に編入。両岸の堤防の幅を100メートル広げるなどの治水事業を始め、現在では対象区域の99%で堤防を整えた。

 また、本県や北陸地方には当時なかった治水ダムの着工に取りかかり、78年には大石ダム(関川村)を、2008年には横川ダム(山形県小国町)をそれぞれ竣工。11年の新潟・福島豪雨では、荒川は氾濫しなかった。50年前と比べると、治水技術や水防対策は格段に進歩した。

 それでも、15年9月の関東・東北豪雨や今年7月の九州北部豪雨のように、多くの死者を出す豪雨災害は度々起きている。

 同事務所は今年4月、荒川が氾濫した場合に浸水する可能性がある地域を示したハザードマップを公開した。浸水時に想定される水深などを色分けしている。「羽越水害クラスの大雨はまだまだ防げない。リスクを把握し、避難するときはすぐに逃げてほしい」。武藤副所長が語った。


◆羽越水害50年(3)災害の伝承 「大蛇」担う
(読売新聞新潟版2017年08月27日)
http://www.yomiuri.co.jp/local/niigata/feature/CO030612/20170827-OYTAT50002.html

 荒川の氾濫で34人の死者・行方不明者を出した関川村。村がたどった50年は、羽越水害からの復興の歩みと重なる。

 慰霊碑のある湯沢観音公園で25日に開かれた供養祭では、50年前を思わせる強い雨が降り続いた。「あの時の体験の全てを後の世に残す決意と努力が、犠牲になった皆さんの尊い霊に報いることだ」。平田大六村長(83)が慰霊の言葉を述べた。

 だが、村も他の自治体と同様、高齢化と過疎化の問題を抱える。毎年行われてきた供養祭は、遺族が亡くなるなどして参列者が減り、今回で最後となった。

 村民の心に深く刻まれた災害の記憶をどう受け継いでいくか。その思いは、わらと竹でできた「大蛇」が村内を練り歩く「大したもん蛇まつり」に託される。

 まつりのアイデアを生み出したのは、中学3年で水害を経験した須貝正春さん(64)だ。

浸水した自宅の畳を張り替えに来た新発田市の職人の元で修業し、20歳で村に戻った。「村を良くするには若い力が大事だ」と、経営する旅館で勉強会を開きながら、村が開いた人材育成塾に参加した。村をあげてのイベントが開催できないか議論が交わされる中、目を付けたのが、羽越水害と、水害をもたらそうとした大蛇を村人が退治したという村の言い伝え「大里峠」だった。「魅力のある田舎を望んでいた。『予算はない』と言われたが、村全体が関わるものにしたかった」

 作業場に2か月間閉じこもり、図面製作にとりかかった。車道を渡る際に簡単に分解でき、狭い道を直角に曲がることができるよう工夫を施し、竹を折り曲げてつくった胴体にわらを編み込む製法を編み出した。

 約1・5メートルの胴体部分のパーツは、村の全54集落に製作を依頼した。各集落とつながりがある村体育協会に最初に話を持ちかけた際は「手間がかかる」と反対の声が上がったが、「他にどこができるのか」と説得し協力にこぎ着けた。

 初めて開催したのは、災害から20年が過ぎた1988年。各集落の区長に頼み込んで、全村民の2割にあたる約1500人の担ぎ手を集めた。村内約30キロをパレードする様子が報道されると、評判を呼び、全国各地のイベントに招待された。近年は、担ぎ手に大学生のボランティアも参加するようになった。須貝さんは「村外に出た人が、『大蛇』ができてから関川出身だと堂々と言えるようになったと聞いた」と目を細める。

 27日に行われる今年のパレードは30回目の節目となり、各集落が2月から作ってきた9代目の「大蛇」がお目見えする。長さは、水害が起きた8月28日にちなんで「82・8メートル」。約10年前に須貝さんから先導役を引き継いだ大工の三須真さん(48)は「若い世代がまつりに関わり、水害の記憶が薄れないようにしていきたい」と力を込めた。


◆羽越水害50年(4)被災体験 歌で次代へ
(読売新聞新潟版2017年08月28日)
http://www.yomiuri.co.jp/local/niigata/feature/CO030612/20170829-OYTAT50018.html

 母なる阿賀野川は その大自然の中で 幸せの歌を生み続けた めぐる山々は 頂上に その大きな歌を木霊させた♪

 新発田市で27日に開かれた羽越水害復興50年の記念シンポジウムで、阿賀町立(旧三川村立)三川中の全校生徒約50人の歌声が響き渡った。歌い上げたのは、5曲で構成された合唱組曲「阿賀野川」だ。

 歌詞は、水害時に三川中の3年生だった大屋(旧姓・斎藤)美智子さん(64)の体験が基になっている。「思い出すと今でも胸が詰まるが、50年の節目。当時のことを伝えたい」。大屋さんが語る。

 1967年8月28日夜、自宅近くの新谷川の流れが激しさを増し、避難を呼びかける半鐘が村中に鳴り響いた。

 浸水に備えようと、自宅で家族とともに2階に家財道具を運び、少し疲れて1階で横になった時だった。首の後ろや足元に、水の感触があった。跳び起きて茶の間をのぞくと、かまどの灰が浸水した水によって天井に吹き上げられていた。「死ぬのかな」。歯がガタガタ震えだした。

 慌てて2階に上がったが、その間も水位が上がる。「早く下りてこい!」。消防団長として水防作業に当たっていた父の利一さん(当時41歳)が帰ってきて、自宅外への避難を求めた。濁流は腰の高さになり、利一さんの持つ竹ざおにつかまって、石垣の上にある民家にどうにか避難した。自宅は程なくして流されていった。

 10日ほどして学校が再開したが、同級生の一人は土砂に押し出されて亡くなった。

 最初の授業は水害の体験を作文にすることだった。「思い出したくない」。大屋さんはこう題して、体験を原稿用紙数枚に書き上げ、卒業文集に掲載された。

 それから二十数年後。三川中に赴任した音楽教師の岩崎正法さんが文集を読み、作文に感銘を受けた。「鎮魂の意味を込めた合唱組曲を作りたい」。大竹敏夫校長(当時)に掛け合って村に協力を要請すると、水害で家族4人を亡くした山口銀次村長(同)は快諾した。山本和夫、岩河三郎両氏に作詞、作曲をそれぞれ依頼し、1991年7月、「阿賀野川」が完成した。

 翌月、新潟市内で三川中の生徒によって披露されると、多くの聴衆が涙を流したという。当時、3年生で歌った斎藤隆さん(40)は「歌で水害を学んだ。今でも忘れていない」と振り返る。

 阿賀町には、混声合唱団「阿賀野川を歌う会」がある。「人々が立ち上がる力強さが歌詞に込められている。大切に歌い継いでいきたい」。柾木ゆり子代表(69)は話す。

 災害を次代に伝えることは、亡くなった人だけでなく、つらい記憶を乗り越えて力強く生きる人に思いをはせることにもつながる
(おわり。この連載は、鳥塚新、浜田喜将が担当しました)


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久子さんと登久子さんは日が昇って水が引いた後、川船で救助された。だが、姉夫婦ら5人は海辺で遺体となって見つかった。

 登久子さんは、一緒に流された姉の佳久さん(当時31歳)がめい(当時4歳)を背負い、「この子だけはどうか助けて」と訴えた声が今でも耳から離れない。祖母のコシノさん(当時83歳)は秋田県の男鹿半島まで流れ着き、地元漁師に発見された。

 旅館の建物はほとんど流され、久子さんと登久子さんは料理店を開いて生活をしのいだ。数年後、旅館を同じ場所に建て直し、改築を重ねて鉄筋コンクリートの頑丈な造りにした。

 今でも大雨の度に思い出す。「荒川は何回も氾濫してきたが、羽越水害のときは規模が違った」。2人は口をそろえる。

     ◇

荒川の氾濫で水没した国鉄坂町駅。線路は見えない(1967年8月29日、本社機から)
荒川の氾濫で水没した国鉄坂町駅。線路は見えない(1967年8月29日、本社機から)

 山間部の大雨では、流木が被害を拡大させる。今年7月の九州北部豪雨でも、土砂崩れなどで流された樹木が家屋を襲い、行方不明者の捜索も妨げた。新潟大災害・復興科学研究所の安田浩保准教授(河川工学)は「羽越水害と九州豪雨は川と山が近い点で類似性がある。土砂と一緒に流れた樹木が漂流物として被害をもたらす」と指摘する。

 県内では一部の河川で流木対策が講じられている。県河川管理課によると、1995年に上越地方を襲った「7・11水害」を受け、妙高市の関川上流に流木をせき止める「流木捕捉工」を数か所設置している。


◆羽越水害50年(2)農村 河川整備後回し
(読売新聞新潟版2017年08月26日)
http://www.yomiuri.co.jp/local/niigata/feature/CO030612/20170825-OYTAT50031.html

 羽越水害が発生した1967年は、高度経済成長に伴って治水技術の進歩が始まった頃だ。しかし水害対策はまだ十分ではなく、至る所で堤防が決壊し、約4万5000棟の家屋が床下浸水に遭うなど被害は広範囲に及んだ。

 「堤防を補強していたそばから崩れ、撤退することになった」。羽越水害で加治川の決壊を防ぐ作業にあたった新発田市の加藤洋平さん(74)は振り返る。消防団員として堤防に土のうを積み上げたり、くいを打ったりしたが、うねるような濁流が作業の前に立ちはだかった。

 河川の堤防工事は、戦前はトロッコなどで土を運んで人力で踏み固める作業が中心だったが、戦後、ブルドーザーの導入などで飛躍的に進化した。新潟大の大熊孝名誉教授(河川工学)は「遠くから大量の土を運ぶことができるようになり、強固な堤防を造れるようになった」と話す。60年代後半は、都市部を中心に河川整備の予算も回り始めていた。

 だが、農村部の河川整備は後回しにされた。最も大きな被害を出した荒川を管理する国土交通省羽越河川国道事務所の武藤和明・副所長も「当時は不十分な堤防しかなかった」と話す。

 そこに記録的な豪雨が降り注げば、被害が拡大するのは明らかだった。羽越水害発生時に村上市小岩内で観測した荒川の流量は毎秒約8000トン。当時限界とされた同3200トンを大きく超えていた。

 県によると、水害2日前の8月26日頃から停滞していた前線が活発化。28日夜から豪雨が襲い、胎内川上流域では700ミリ以上の総降水量を記録した。関川村の佐藤忠良副村長(72)は「急にバケツをひっくり返したような雨が降ってきた」と語る。

 羽越河川国道事務所は、羽越水害を受けて開設された。国は荒川を1級河川に指定し、下流を直轄区間に編入。両岸の堤防の幅を100メートル広げるなどの治水事業を始め、現在では対象区域の99%で堤防を整えた。

 また、本県や北陸地方には当時なかった治水ダムの着工に取りかかり、78年には大石ダム(関川村)を、2008年には横川ダム(山形県小国町)をそれぞれ竣工。11年の新潟・福島豪雨では、荒川は氾濫しなかった。50年前と比べると、治水技術や水防対策は格段に進歩した。

 それでも、15年9月の関東・東北豪雨や今年7月の九州北部豪雨のように、多くの死者を出す豪雨災害は度々起きている。

 同事務所は今年4月、荒川が氾濫した場合に浸水する可能性がある地域を示したハザードマップを公開した。浸水時に想定される水深などを色分けしている。「羽越水害クラスの大雨はまだまだ防げない。リスクを把握し、避難するときはすぐに逃げてほしい」。武藤副所長が語った。


◆羽越水害50年(3)災害の伝承 「大蛇」担う
(読売新聞新潟版2017年08月27日)
http://www.yomiuri.co.jp/local/niigata/feature/CO030612/20170827-OYTAT50002.html

 荒川の氾濫で34人の死者・行方不明者を出した関川村。村がたどった50年は、羽越水害からの復興の歩みと重なる。

 慰霊碑のある湯沢観音公園で25日に開かれた供養祭では、50年前を思わせる強い雨が降り続いた。「あの時の体験の全てを後の世に残す決意と努力が、犠牲になった皆さんの尊い霊に報いることだ」。平田大六村長(83)が慰霊の言葉を述べた。

 だが、村も他の自治体と同様、高齢化と過疎化の問題を抱える。毎年行われてきた供養祭は、遺族が亡くなるなどして参列者が減り、今回で最後となった。

 村民の心に深く刻まれた災害の記憶をどう受け継いでいくか。その思いは、わらと竹でできた「大蛇」が村内を練り歩く「大したもん蛇まつり」に託される。

 まつりのアイデアを生み出したのは、中学3年で水害を経験した須貝正春さん(64)だ。

浸水した自宅の畳を張り替えに来た新発田市の職人の元で修業し、20歳で村に戻った。「村を良くするには若い力が大事だ」と、経営する旅館で勉強会を開きながら、村が開いた人材育成塾に参加した。村をあげてのイベントが開催できないか議論が交わされる中、目を付けたのが、羽越水害と、水害をもたらそうとした大蛇を村人が退治したという村の言い伝え「大里峠」だった。「魅力のある田舎を望んでいた。『予算はない』と言われたが、村全体が関わるものにしたかった」

 作業場に2か月間閉じこもり、図面製作にとりかかった。車道を渡る際に簡単に分解でき、狭い道を直角に曲がることができるよう工夫を施し、竹を折り曲げてつくった胴体にわらを編み込む製法を編み出した。

 約1・5メートルの胴体部分のパーツは、村の全54集落に製作を依頼した。各集落とつながりがある村体育協会に最初に話を持ちかけた際は「手間がかかる」と反対の声が上がったが、「他にどこができるのか」と説得し協力にこぎ着けた。

 初めて開催したのは、災害から20年が過ぎた1988年。各集落の区長に頼み込んで、全村民の2割にあたる約1500人の担ぎ手を集めた。村内約30キロをパレードする様子が報道されると、評判を呼び、全国各地のイベントに招待された。近年は、担ぎ手に大学生のボランティアも参加するようになった。須貝さんは「村外に出た人が、『大蛇』ができてから関川出身だと堂々と言えるようになったと聞いた」と目を細める。

 27日に行われる今年のパレードは30回目の節目となり、各集落が2月から作ってきた9代目の「大蛇」がお目見えする。長さは、水害が起きた8月28日にちなんで「82・8メートル」。約10年前に須貝さんから先導役を引き継いだ大工の三須真さん(48)は「若い世代がまつりに関わり、水害の記憶が薄れないようにしていきたい」と力を込めた。


◆羽越水害50年(4)被災体験 歌で次代へ
(読売新聞新潟版2017年08月28日)
http://www.yomiuri.co.jp/local/niigata/feature/CO030612/20170829-OYTAT50018.html

 母なる阿賀野川は その大自然の中で 幸せの歌を生み続けた めぐる山々は 頂上に その大きな歌を木霊させた♪

 新発田市で27日に開かれた羽越水害復興50年の記念シンポジウムで、阿賀町立(旧三川村立)三川中の全校生徒約50人の歌声が響き渡った。歌い上げたのは、5曲で構成された合唱組曲「阿賀野川」だ。

 歌詞は、水害時に三川中の3年生だった大屋(旧姓・斎藤)美智子さん(64)の体験が基になっている。「思い出すと今でも胸が詰まるが、50年の節目。当時のことを伝えたい」。大屋さんが語る。

 1967年8月28日夜、自宅近くの新谷川の流れが激しさを増し、避難を呼びかける半鐘が村中に鳴り響いた。

 浸水に備えようと、自宅で家族とともに2階に家財道具を運び、少し疲れて1階で横になった時だった。首の後ろや足元に、水の感触があった。跳び起きて茶の間をのぞくと、かまどの灰が浸水した水によって天井に吹き上げられていた。「死ぬのかな」。歯がガタガタ震えだした。

 慌てて2階に上がったが、その間も水位が上がる。「早く下りてこい!」。消防団長として水防作業に当たっていた父の利一さん(当時41歳)が帰ってきて、自宅外への避難を求めた。濁流は腰の高さになり、利一さんの持つ竹ざおにつかまって、石垣の上にある民家にどうにか避難した。自宅は程なくして流されていった。

 10日ほどして学校が再開したが、同級生の一人は土砂に押し出されて亡くなった。

 最初の授業は水害の体験を作文にすることだった。「思い出したくない」。大屋さんはこう題して、体験を原稿用紙数枚に書き上げ、卒業文集に掲載された。

 それから二十数年後。三川中に赴任した音楽教師の岩崎正法さんが文集を読み、作文に感銘を受けた。「鎮魂の意味を込めた合唱組曲を作りたい」。大竹敏夫校長(当時)に掛け合って村に協力を要請すると、水害で家族4人を亡くした山口銀次村長(同)は快諾した。山本和夫、岩河三郎両氏に作詞、作曲をそれぞれ依頼し、1991年7月、「阿賀野川」が完成した。

 翌月、新潟市内で三川中の生徒によって披露されると、多くの聴衆が涙を流したという。当時、3年生で歌った斎藤隆さん(40)は「歌で水害を学んだ。今でも忘れていない」と振り返る。

 阿賀町には、混声合唱団「阿賀野川を歌う会」がある。「人々が立ち上がる力強さが歌詞に込められている。大切に歌い継いでいきたい」。柾木ゆり子代表(69)は話す。

 災害を次代に伝えることは、亡くなった人だけでなく、つらい記憶を乗り越えて力強く生きる人に思いをはせることにもつながる
(おわり。この連載は、鳥塚新、浜田喜将が担当しました)

【2017/09/04 22:42】 | 新聞記事から
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