「ダム建設の時代は終わった」by米国内務省開拓局長官ウィリアム・ピアーズ
             嶋津 暉之

昨年9月の鬼怒川の氾濫は農家、商工業の人たちに対して深い傷跡を残しました。
東京新聞の連載記事(上)、(下)をお送りします。

◆鬼怒川決壊から半年 (上)離農する農家の苦悩
(東京新聞茨城版2016年3月13日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201603/CK2016031302000158.html

 土砂を撤去した田んぼに、石が散乱する。隣の田んぼには、洪水で流れてきたテーブルやタイヤ、ドラム缶が当時のまま残されていた。もうすぐ田植えの季節を迎えるが、水害の傷跡はなお深い。

 鬼怒川の洪水で、大きな被害を受けた常総市若宮戸地区。「鬼怒川の東側の一帯は、市内でも有数の稲作地帯だった。肥沃(ひよく)な土地で、良質な米が育つんです」。代々、ここで米づくりを続けてきた小林恵一さん(62)は、右腕を大きく広げた。大規模な農地整備も行われ、碁盤の目のように田んぼが整然と仕切られている。

 四ヘクタールの田んぼを耕作していた小林さんは、水害で米づくりを断念した。離農を決断させたのは、農機具の被害だった。物置のコンバインや田植え機、乾燥機、トレーラーなどが軒並み濁流にのみ込まれた。被害額は約三千万円。農機具の修理や買い替えに際し、国などが新たに六割補助を打ち出したが、残る約千二百万円の負担は、あまりにも重過ぎた。

 「七十すぎまで農業を続けようと思って、田植え機やコンバインを購入したばかり。まだ十年以上使えただけに、こたえた」

 母屋は昨年暮れに解体し、納屋の二間を改修して、妻(61)、母親(86)、父親(86)と四人で暮らす。納屋の改修に六百万円かかり、もはや離農という選択肢しか残されていなかった。

 小林さんに代わって、JA常総ひかりが田んぼを引き継ぐ。「米づくりが続くだけでも、ひと安心。自分の田んぼが、荒れ放題になるのを目にするのは忍びないですから」。寂しげな笑顔がこぼれる。

     ◇

 農機具類を保管していた倉庫の壁には、人の背丈を超えた濁流の跡が、くっきりと残っていた。トラクター四台、田植え機二台、乾燥機六台。購入したばかりの農機具も被害に遭った。同市沖新田町などに、計六十ヘクタールの田んぼを保有する落合文雄さん(70)。市内で有数の大規模農家だ。土木建築業も営む落合さんの事業所では、ダンプカー四台、重機四台も水没した。

 トラクターの盗難が相次いだため、四台中三台は保険に入っていたが、ほかは国などの支援に頼る。修理や新規購入で、重機なども含めると、自己負担は数千万円に達する。

 「人を雇って大規模に米づくりをやってきた以上、自分がやめるわけにはいかない」と決断。県の調査では、市内で被災した農機具類は千六百五十台に上った。

     ◇

 刈り入れシーズンのまっただ中、収穫から出荷のタイミングで水が襲った。市内の多くの農家が、収穫した米を倉庫などに保管していたため、千四十四トンの保管米が水をかぶった。保管米は農業共済制度の対象外で、国は農業の継続を条件に救済に乗り出した。

 五百四十戸の農家が被害を受けたが、交付を申請したのは三百三十戸止まり。残りの二百戸以上は-。市農政課は「単純にこの数字が離農を示しているとは思わないが、ある程度、反映していると見るしかない」と言う。担い手不足と農家の高齢化、失った農機具。離農する農家は後を絶たない。

     ◇

 関東・東北水害で常総市の鬼怒川が決壊して半年がたった。大きな被害を受けた市内は復旧が進み、被災した市民も生活の再建に向け、着実に一歩を踏み出した。その陰で、これまでの生業を今後も続けるか、ここで断念するか、岐路に立つ人たちがいる。決断の春を追う。 (原田拓哉)


◆鬼怒川決壊から半年 (下)商工業
(東京新聞茨城版2016年3月14日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201603/CK2016031402000167.html

 常総市水海道諏訪町の市役所近くにある和食店「お多幸(たゆき)」。昨年九月の関東・東北水害で床上一・五メートル以上浸水した。三十人が入る店内は空っぽ、床は消毒剤で真っ白。二十年以上にわたり店を営んできた大野誠さん(58)は「床や壁を替えたり、冷蔵庫を買ったり…。元に戻すには千五百万円はかかる」とため息をつく。

 昨年末、店舗よりは被害が少なかった同市水海道橋本町の自宅一階をリフォームし、そこで営業を続ける決断をした。五百万円融資を受け、五十万円は県と市の事業継続支援補助金で賄う。自宅は七年前に購入した。ローンを返済するため、自宅を店に改装してしまおうという考えだ。

 今年二月、台所にカウンターを設置した時には「店が再開できる」と実感した。居間や仏間など四部屋を使い、四十人ほど収容できるスペースをつくった。今春の開店を目指す。「ピンチはチャンス。名前通り幸せが多い店にしたいね」と笑みがこぼれる。

     ◇

 戦前から続いた約三千平方メートルの製麺工場の壁には、二メートル近い高さまで泥が付いていた。うどんやそばなど九種の麺を製造していた機械は全て撤去され、建屋の中を冷たい風が通り抜けていく。

 「嫁いでから四十年。年中無休で働いてきた。思い出がいっぱい。もう工場を見るのも嫌」。同市水海道橋本町の水海道二高前で、夫婦で「青柳製麺」を経営していた青柳京子さん(64)は、あふれる涙をぬぐった。

 夫の栄安(しげやす)さん(69)と、月に五トンの小麦粉を麺にして販売してきた。被災した工場の再建には最低でも五千万円はかかる。火災保険には入っていたが、水害は対象外だった。

 悩んだ揚げ句、二月初めに県に廃業届を出した。「子どもに借金を残さなくてよかった」と、自ら言い聞かせるように話す。それでも工場兼店舗の取り壊しに千五百万円ほどかかる。「誰かが取り壊してくれて、資材を有効活用してくれないだろうか」

     ◇

 床上一メートル浸水した同市本石下のスーパー「TAIRAYA(たいらや)石下店」は、昨年十一月末に営業を再開した。同様に被災した近くの商業施設「アピタ石下店」は復旧費がかさむため、本格再開をあきらめ、昨年十二月初めに撤退した。地元住民にとって、TAIRAYAの存在感が増している。

 買い物に訪れた同市沖新田町の横倉よし子さん(71)は「アピタが閉店したので来るようになった。大助かり」とありがたがる。二月に修理が終わったばかりの台所で、買った食材を使い料理の腕を振るうつもりだ。

     ◇

 市によると、鬼怒川東側で被災した事業所は千三百とみられる。しかし、事業継続支援補助金の申請は57%の七百五十一社にとどまっている。市商工会によると、会員の約二十社が水害を理由に廃業、三社が近隣の市に転出して退会した。「被災した中小企業のうち九割近くは、どうにか復旧したが、元通りとはいかない。生活再建に出費がかさんだり、人口転出で、飲食業の売り上げが落ち込んでいる」と話す。 (増井のぞみ)


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 母屋は昨年暮れに解体し、納屋の二間を改修して、妻(61)、母親(86)、父親(86)と四人で暮らす。納屋の改修に六百万円かかり、もはや離農という選択肢しか残されていなかった。

 小林さんに代わって、JA常総ひかりが田んぼを引き継ぐ。「米づくりが続くだけでも、ひと安心。自分の田んぼが、荒れ放題になるのを目にするのは忍びないですから」。寂しげな笑顔がこぼれる。

     ◇

 農機具類を保管していた倉庫の壁には、人の背丈を超えた濁流の跡が、くっきりと残っていた。トラクター四台、田植え機二台、乾燥機六台。購入したばかりの農機具も被害に遭った。同市沖新田町などに、計六十ヘクタールの田んぼを保有する落合文雄さん(70)。市内で有数の大規模農家だ。土木建築業も営む落合さんの事業所では、ダンプカー四台、重機四台も水没した。

 トラクターの盗難が相次いだため、四台中三台は保険に入っていたが、ほかは国などの支援に頼る。修理や新規購入で、重機なども含めると、自己負担は数千万円に達する。

 「人を雇って大規模に米づくりをやってきた以上、自分がやめるわけにはいかない」と決断。県の調査では、市内で被災した農機具類は千六百五十台に上った。

     ◇

 刈り入れシーズンのまっただ中、収穫から出荷のタイミングで水が襲った。市内の多くの農家が、収穫した米を倉庫などに保管していたため、千四十四トンの保管米が水をかぶった。保管米は農業共済制度の対象外で、国は農業の継続を条件に救済に乗り出した。

 五百四十戸の農家が被害を受けたが、交付を申請したのは三百三十戸止まり。残りの二百戸以上は-。市農政課は「単純にこの数字が離農を示しているとは思わないが、ある程度、反映していると見るしかない」と言う。担い手不足と農家の高齢化、失った農機具。離農する農家は後を絶たない。

     ◇

 関東・東北水害で常総市の鬼怒川が決壊して半年がたった。大きな被害を受けた市内は復旧が進み、被災した市民も生活の再建に向け、着実に一歩を踏み出した。その陰で、これまでの生業を今後も続けるか、ここで断念するか、岐路に立つ人たちがいる。決断の春を追う。 (原田拓哉)


◆鬼怒川決壊から半年 (下)商工業
(東京新聞茨城版2016年3月14日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201603/CK2016031402000167.html

 常総市水海道諏訪町の市役所近くにある和食店「お多幸(たゆき)」。昨年九月の関東・東北水害で床上一・五メートル以上浸水した。三十人が入る店内は空っぽ、床は消毒剤で真っ白。二十年以上にわたり店を営んできた大野誠さん(58)は「床や壁を替えたり、冷蔵庫を買ったり…。元に戻すには千五百万円はかかる」とため息をつく。

 昨年末、店舗よりは被害が少なかった同市水海道橋本町の自宅一階をリフォームし、そこで営業を続ける決断をした。五百万円融資を受け、五十万円は県と市の事業継続支援補助金で賄う。自宅は七年前に購入した。ローンを返済するため、自宅を店に改装してしまおうという考えだ。

 今年二月、台所にカウンターを設置した時には「店が再開できる」と実感した。居間や仏間など四部屋を使い、四十人ほど収容できるスペースをつくった。今春の開店を目指す。「ピンチはチャンス。名前通り幸せが多い店にしたいね」と笑みがこぼれる。

     ◇

 戦前から続いた約三千平方メートルの製麺工場の壁には、二メートル近い高さまで泥が付いていた。うどんやそばなど九種の麺を製造していた機械は全て撤去され、建屋の中を冷たい風が通り抜けていく。

 「嫁いでから四十年。年中無休で働いてきた。思い出がいっぱい。もう工場を見るのも嫌」。同市水海道橋本町の水海道二高前で、夫婦で「青柳製麺」を経営していた青柳京子さん(64)は、あふれる涙をぬぐった。

 夫の栄安(しげやす)さん(69)と、月に五トンの小麦粉を麺にして販売してきた。被災した工場の再建には最低でも五千万円はかかる。火災保険には入っていたが、水害は対象外だった。

 悩んだ揚げ句、二月初めに県に廃業届を出した。「子どもに借金を残さなくてよかった」と、自ら言い聞かせるように話す。それでも工場兼店舗の取り壊しに千五百万円ほどかかる。「誰かが取り壊してくれて、資材を有効活用してくれないだろうか」

     ◇

 床上一メートル浸水した同市本石下のスーパー「TAIRAYA(たいらや)石下店」は、昨年十一月末に営業を再開した。同様に被災した近くの商業施設「アピタ石下店」は復旧費がかさむため、本格再開をあきらめ、昨年十二月初めに撤退した。地元住民にとって、TAIRAYAの存在感が増している。

 買い物に訪れた同市沖新田町の横倉よし子さん(71)は「アピタが閉店したので来るようになった。大助かり」とありがたがる。二月に修理が終わったばかりの台所で、買った食材を使い料理の腕を振るうつもりだ。

     ◇

 市によると、鬼怒川東側で被災した事業所は千三百とみられる。しかし、事業継続支援補助金の申請は57%の七百五十一社にとどまっている。市商工会によると、会員の約二十社が水害を理由に廃業、三社が近隣の市に転出して退会した。「被災した中小企業のうち九割近くは、どうにか復旧したが、元通りとはいかない。生活再建に出費がかさんだり、人口転出で、飲食業の売り上げが落ち込んでいる」と話す。 (増井のぞみ)

【2016/03/16 22:10】 | 鬼怒川水害
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