「ダム建設の時代は終わった」by米国内務省開拓局長官ウィリアム・ピアーズ
◆(インタビュー)変わらぬダムに物申す
ダム懐疑派になった元長良川河口堰建設所長・宮本博司さん

(朝日新聞 2015年7月4日)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11840486.html

計画浮上から63年の八ツ場ダム(群馬県)が本体着工し、巨大防潮堤やスーパー堤防の建設も進む。そんな現状に、長良川河口堰(かこうぜき)(三重県)が20年前の7月6日に全国的な批判を浴びながら本格運用を始めた際、直前まで現場トップだった元国土交通省課長の宮本博司さんは異を唱える。これまで通りではいけない、と。

――長良川河口堰のスポークスマンだった人が国交省を辞め、今は八ツ場ダム批判派の集会に出て発言する。国交省では裏切り者扱いで、かつてを知る私にも戸惑いがあります。

「一昨年、三重県の川上ダムを検証する地元自治体の委員会で委員長を務めましたが、その時も推進派の地元委員から面と向かって非難されました。『(近畿地方整備局河川部長だった)現職の時は事業を進めると言っていたじゃないか』と。私はただ、地域にとって最善の方法を探りたいと話してきただけですが……」

――ダム反対、ではない?

「洪水対策のダムは、計画の場所に想定内の雨が降れば役に立ちます。ただし、違う場所に想定以上降ったらどうか。そして建設に数十年の時間と数千億円のお金がかかる。住民を移転させ、自然への影響も大きい。効果と副作用をわかったうえで合意できるなら進めようと言っているんです」

――国交省にいた時からダムに懐疑的だったんですか。

「若い時からダム担当で、公共事業全盛のバブル時代は1年で50の新規ダム建設を旧大蔵省に予算要求したこともあります。ただ、一つひとつの事業に思い入れはなく、地元からくる書類を整えただけでした。それではだめなんだ。そう気づいたのは、1990年から3年間、苫田ダム(岡山県)の工事事務所長だった時です」

「構想から30年余りたつのに反対が強く、『とまったダム』と言われていました。水没する500戸中、移転を拒む70戸は先が見えず耐えているだけ。同意した430戸も進んで故郷を出るわけではない。赴任早々、玄関に卵をぶつけられたこともあります。住み慣れた家を出る切なさは計りしれない。あの時はもう立派なダムを早く完成させるしかないと思いましたが、ダムはこんな地獄のような苦しみを住民に味わわせるんだと、現場で思い知りました」

――では、ダムを造る代わりにどうすればいいのでしょう。

「まず堤防の強化です。日本の河川堤防は土と砂でできていて、強くはない。なのに利根川や淀川の堤防は10メートルもの高さがある。大洪水で目いっぱいまで水位が上がった後に壊れたら、都市は壊滅的な打撃を受けます。雨水が川に流れず、内水があふれるゲリラ豪雨の比ではありません」

――ただ、国交省も堤防を強化しようと、スーパー堤防を首都圏や近畿圏で建設中です。

「これは堤防の幅を高さの30倍に広げ、その上に家を建てるというものです。安全にはなっても費用は膨大。完成まで400年かかると批判されました。それより今の堤防を補強して洪水が乗り越えても壊れにくくなるようにしたら、少ない費用ですぐ役に立ちます。堤防の中にコンクリートのシートを入れて上から土をかぶせるなど、様々な工夫があります。国交省には実績もあるんです」

■ ■

――河口堰が95年に完成した時、旧水資源開発公団に出向して現場トップの建設所長でした。

「地域と関係ない作家や俳優、与党の国会議員まで反対し、連日報道される事業なんて初めて。当時の建設省河川局(現在の国交省水管理・国土保全局)は局長以下、課を超えて議論しましたよ。新しい方針が次々と出ました。批判派も入れて調査委員会を作れ、情報は全部出せ、隠すな、と」

「運用開始の直前まで賛否両派の公開の円卓会議を続けました。しかしどれだけ頑張っても天下り先を作るためだろ、業者をもうけさせるためだろと言われ、空しかった。河口堰は完成させる。でも二度とこんな騒ぎはごめんだ。それが河川局の共通認識でした」

――その後、ダム政策が大幅に見直されるようになります。

「外部の委員を入れたダム審議会が主な事業ごとに作られ、省内の総点検でも次々にダムが中止、休止になりました。上司が『あの事業を止めろ』と言ってきたくらい。もちろん、ずっとダムを造ってきたごりごりの人もいるし、いままで進めてきたすべての事業をいきなりやめられるものではない。でも少なくとも本流に造るのはもうやめよう、そんな議論までしました。そのうえで97年に河川法が改正されます」

――環境配慮や市民参加の河川計画作りをうたった大型改正ですね。その後、関西に赴任し、淀川水系の河川整備計画に市民らの意見を反映させる流域委員会を2001年に立ち上げました。

「お手盛りの委員会では意味がないので委員の選任から学者や弁護士らに頼み、事務局も民間に置きました。情報公開は当然で、役所は資料を出して説明するだけ。提言の原案も委員が書くことにしました。当時の次官も了解し、『面白いじゃないか』と河川局で評判でした。国交省の各地の出先から見学にきたほどです」

■ ■

――この流域委員会は、ダムは原則建設しないという提言を03年に出したことで有名です。当時、淀川水系には計画・建設中のダムが五つありました。

「その『原則ダムなし提言』で流れが変わるんです。実は一つひとつ川の状況を確認しながら議論していけば自然にそういう結論が出る可能性もあったのに、委員が先回りして原則を宣言してしまった。やり方が学者だなあと思いましたが、そこでブレーキをかければ前と同じ。腹をくくった」

「提言はよく読めば、ただし書きに『ほかに方法がなければダムを建設できる』と書いてあるのに、『国交省が作った委員会がダム否定』とセンセーショナルに報道されてしまった。与党推薦の学者が安保法制を憲法違反と言うようなもので、驚いた本省が撤回させろと言ってきました。いまから思えば、もともと本省は『宮本なら最後はダム推進でまとめるだろう』と期待していたんでしょう」

――国交省はその後、05年に2ダムだけ凍結します。06年に退職した宮本さんは翌年、淀川水系流域委員会の委員長になりました。

「京都の実家に戻ったら委員会が市民委員を公募していて、応募して選ばれ、互選で委員長になりました。前と違って役所が原案を作ったり、途中で委員会を休止したりするようになっていましたが、国交省が凍結を撤回した大戸川ダムを含め、ダム計画を不適切とする意見をまとめました。巻き返しが強く、正式中止は、5ダムのうち余野川ダムだけですがね」

■ ■

――日本の治水対策は何が問題なのでしょうか。

「洪水は堤防の中に閉じ込め、川を直線にして早く海に流せ。これが明治以来の治水の考えです。目標とする洪水の規模を定め、川の中で何トン、上流のダムで何トンと分担させる。一見合理的ですが、実際の堤防は土と砂で、計算通りに対応できるかわからない。それに利根川や淀川は200年に1回の大洪水、球磨川は80年に1回の洪水規模を想定していますが、目標の決め方に根拠はない。なぜうちの川はこうなんだ、と質問されても説明できません」

――欧州では、川をあえて蛇行させ、氾濫原(はんらんげん)を復活させる治水対策に取り組んでいます。

「国交省も世界の流れはわかっている。利根川が200年に1回の洪水に耐えられるようにするには、八ツ場ダムの後もいくつもダムを造らなきゃいかん。でもできっこない。そんな全体計画もない。ただ目の前の事業だけはやらせてくれ、それだけです」

――東日本大震災後は国土強靱(きょうじん)化が唱えられ、ダムなどの大型公共事業を見直す議論にはなっていないように見えます。

「そこが不思議です。巨大な津波でコンクリート構造物に頼る危険性を思い知り、200年に1回どころかもっと上の想定外がありうることを知ったのに、なぜ従来通りの事業が進むのか。政治家も見直しを言わなくなりました」

「治水対策は、役所任せでなく、計画段階から住民を交えて事業のいい面、悪い面を徹底的に議論し、地元住民の合意を得て進めなければなりません。そうでなければ、住民の命を守るという本来の目的が果たせない。役所の人間も本当はわかっているんですよ。これまで通りでは命を守れない、ということを」

*みやもとひろし 52年生まれ。78年に旧建設省入省。近畿地方整備局河川部長や本省防災課長などを務め、06年に退職。現在は家業の包装資材販売会社社長。


■取材を終えて

20年ぶりに一緒に歩いた河口堰の階段はさび付き、展示施設は天井の覆いがはがれていた。「あんなに膨大なエネルギーをつかって議論した現場がこれか」。宮本さんは怒っていた。いわゆる環境派としてダムや堰に反対するのではなく、合意なき公共事業の破綻(はたん)を憂えている。国土強靱化に邁進(まいしん)するこの国の政治は、宮本さんが示そうとした第三の道を見失っていないか。(編集委員・伊藤智章)



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「洪水対策のダムは、計画の場所に想定内の雨が降れば役に立ちます。ただし、違う場所に想定以上降ったらどうか。そして建設に数十年の時間と数千億円のお金がかかる。住民を移転させ、自然への影響も大きい。効果と副作用をわかったうえで合意できるなら進めようと言っているんです」

――国交省にいた時からダムに懐疑的だったんですか。

「若い時からダム担当で、公共事業全盛のバブル時代は1年で50の新規ダム建設を旧大蔵省に予算要求したこともあります。ただ、一つひとつの事業に思い入れはなく、地元からくる書類を整えただけでした。それではだめなんだ。そう気づいたのは、1990年から3年間、苫田ダム(岡山県)の工事事務所長だった時です」

「構想から30年余りたつのに反対が強く、『とまったダム』と言われていました。水没する500戸中、移転を拒む70戸は先が見えず耐えているだけ。同意した430戸も進んで故郷を出るわけではない。赴任早々、玄関に卵をぶつけられたこともあります。住み慣れた家を出る切なさは計りしれない。あの時はもう立派なダムを早く完成させるしかないと思いましたが、ダムはこんな地獄のような苦しみを住民に味わわせるんだと、現場で思い知りました」

――では、ダムを造る代わりにどうすればいいのでしょう。

「まず堤防の強化です。日本の河川堤防は土と砂でできていて、強くはない。なのに利根川や淀川の堤防は10メートルもの高さがある。大洪水で目いっぱいまで水位が上がった後に壊れたら、都市は壊滅的な打撃を受けます。雨水が川に流れず、内水があふれるゲリラ豪雨の比ではありません」

――ただ、国交省も堤防を強化しようと、スーパー堤防を首都圏や近畿圏で建設中です。

「これは堤防の幅を高さの30倍に広げ、その上に家を建てるというものです。安全にはなっても費用は膨大。完成まで400年かかると批判されました。それより今の堤防を補強して洪水が乗り越えても壊れにくくなるようにしたら、少ない費用ですぐ役に立ちます。堤防の中にコンクリートのシートを入れて上から土をかぶせるなど、様々な工夫があります。国交省には実績もあるんです」

■ ■

――河口堰が95年に完成した時、旧水資源開発公団に出向して現場トップの建設所長でした。

「地域と関係ない作家や俳優、与党の国会議員まで反対し、連日報道される事業なんて初めて。当時の建設省河川局(現在の国交省水管理・国土保全局)は局長以下、課を超えて議論しましたよ。新しい方針が次々と出ました。批判派も入れて調査委員会を作れ、情報は全部出せ、隠すな、と」

「運用開始の直前まで賛否両派の公開の円卓会議を続けました。しかしどれだけ頑張っても天下り先を作るためだろ、業者をもうけさせるためだろと言われ、空しかった。河口堰は完成させる。でも二度とこんな騒ぎはごめんだ。それが河川局の共通認識でした」

――その後、ダム政策が大幅に見直されるようになります。

「外部の委員を入れたダム審議会が主な事業ごとに作られ、省内の総点検でも次々にダムが中止、休止になりました。上司が『あの事業を止めろ』と言ってきたくらい。もちろん、ずっとダムを造ってきたごりごりの人もいるし、いままで進めてきたすべての事業をいきなりやめられるものではない。でも少なくとも本流に造るのはもうやめよう、そんな議論までしました。そのうえで97年に河川法が改正されます」

――環境配慮や市民参加の河川計画作りをうたった大型改正ですね。その後、関西に赴任し、淀川水系の河川整備計画に市民らの意見を反映させる流域委員会を2001年に立ち上げました。

「お手盛りの委員会では意味がないので委員の選任から学者や弁護士らに頼み、事務局も民間に置きました。情報公開は当然で、役所は資料を出して説明するだけ。提言の原案も委員が書くことにしました。当時の次官も了解し、『面白いじゃないか』と河川局で評判でした。国交省の各地の出先から見学にきたほどです」

■ ■

――この流域委員会は、ダムは原則建設しないという提言を03年に出したことで有名です。当時、淀川水系には計画・建設中のダムが五つありました。

「その『原則ダムなし提言』で流れが変わるんです。実は一つひとつ川の状況を確認しながら議論していけば自然にそういう結論が出る可能性もあったのに、委員が先回りして原則を宣言してしまった。やり方が学者だなあと思いましたが、そこでブレーキをかければ前と同じ。腹をくくった」

「提言はよく読めば、ただし書きに『ほかに方法がなければダムを建設できる』と書いてあるのに、『国交省が作った委員会がダム否定』とセンセーショナルに報道されてしまった。与党推薦の学者が安保法制を憲法違反と言うようなもので、驚いた本省が撤回させろと言ってきました。いまから思えば、もともと本省は『宮本なら最後はダム推進でまとめるだろう』と期待していたんでしょう」

――国交省はその後、05年に2ダムだけ凍結します。06年に退職した宮本さんは翌年、淀川水系流域委員会の委員長になりました。

「京都の実家に戻ったら委員会が市民委員を公募していて、応募して選ばれ、互選で委員長になりました。前と違って役所が原案を作ったり、途中で委員会を休止したりするようになっていましたが、国交省が凍結を撤回した大戸川ダムを含め、ダム計画を不適切とする意見をまとめました。巻き返しが強く、正式中止は、5ダムのうち余野川ダムだけですがね」

■ ■

――日本の治水対策は何が問題なのでしょうか。

「洪水は堤防の中に閉じ込め、川を直線にして早く海に流せ。これが明治以来の治水の考えです。目標とする洪水の規模を定め、川の中で何トン、上流のダムで何トンと分担させる。一見合理的ですが、実際の堤防は土と砂で、計算通りに対応できるかわからない。それに利根川や淀川は200年に1回の大洪水、球磨川は80年に1回の洪水規模を想定していますが、目標の決め方に根拠はない。なぜうちの川はこうなんだ、と質問されても説明できません」

――欧州では、川をあえて蛇行させ、氾濫原(はんらんげん)を復活させる治水対策に取り組んでいます。

「国交省も世界の流れはわかっている。利根川が200年に1回の洪水に耐えられるようにするには、八ツ場ダムの後もいくつもダムを造らなきゃいかん。でもできっこない。そんな全体計画もない。ただ目の前の事業だけはやらせてくれ、それだけです」

――東日本大震災後は国土強靱(きょうじん)化が唱えられ、ダムなどの大型公共事業を見直す議論にはなっていないように見えます。

「そこが不思議です。巨大な津波でコンクリート構造物に頼る危険性を思い知り、200年に1回どころかもっと上の想定外がありうることを知ったのに、なぜ従来通りの事業が進むのか。政治家も見直しを言わなくなりました」

「治水対策は、役所任せでなく、計画段階から住民を交えて事業のいい面、悪い面を徹底的に議論し、地元住民の合意を得て進めなければなりません。そうでなければ、住民の命を守るという本来の目的が果たせない。役所の人間も本当はわかっているんですよ。これまで通りでは命を守れない、ということを」

*みやもとひろし 52年生まれ。78年に旧建設省入省。近畿地方整備局河川部長や本省防災課長などを務め、06年に退職。現在は家業の包装資材販売会社社長。


■取材を終えて

20年ぶりに一緒に歩いた河口堰の階段はさび付き、展示施設は天井の覆いがはがれていた。「あんなに膨大なエネルギーをつかって議論した現場がこれか」。宮本さんは怒っていた。いわゆる環境派としてダムや堰に反対するのではなく、合意なき公共事業の破綻(はたん)を憂えている。国土強靱化に邁進(まいしん)するこの国の政治は、宮本さんが示そうとした第三の道を見失っていないか。(編集委員・伊藤智章)


【2015/07/05 09:25】 | 新聞記事から
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