「ダム建設の時代は終わった」by米国内務省開拓局長官ウィリアム・ピアーズ
                嶋津 暉之

2000年に中止が決まった徳島県の直轄ダム「細川内ダム」の計画地「旧木頭村」について読売の続きの記事をお送りします。
多くの山村は過疎化の問題に直面していますが、もし細川内ダムができていたら、旧木頭村は過疎化が一層進んでいたのではないでしょうか。
元村長の藤田恵さんのお話しも紹介されています。

◆子供の声消えた
(読売新聞 2015年01月04日)
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO012651/20150104-OYTAT50005.html

産業衰退過疎止まらず

「メーン」「ドォー」

元日の朝、徳島県旧木頭村(きとうそん)(現那賀(なか)町)の体育館。小学生たちの剣道場「木頭錬心館」の初げいこは、帰省したOBらも加わり、約40人でにぎわった。

広場が少ない山あいでもできる剣道は、戦前から盛んだった。村民らが平家の落人の血を引いているからだとの伝承まであり、「村技」と言われてきた。

特産のユズを加工販売する会社「黄金の村」を作った藤田恭嗣(やすし)(41)も小4の頃から通った。当時は約30人が練習に励み、県大会の団体戦で優勝を重ねた。

だが、今では6人に減り、チームを組むことさえ難しい。「村で子供の声をほとんど聞かなくなった。寂しいもんです」と、約40年間ボランティアで指導してきた岡田豊(60)は嘆く。

深刻な過疎は、若年層がやせ細った、極めていびつな人口構成に表れている。
村の面積の98%は山林。人口が現在の3倍の4115人とピークだった1965年当時、基幹産業の林業は、国の「拡大造林」政策で活況に沸いた。補助金を受け、建材やパルプ用の木材を大量に切り出し、スギやヒノキの苗を植える。それでも木材は不足し、どんどん値上がりした。

林業に従事した元村議の田村好(よしみ)(84)は、当時の様子を鮮明に覚えている。

どの山も人手が足りず、他県から出稼ぎが押し寄せた。宿舎となる旅館は10軒ほどあり、映画館もあった。父が営む商店では酒やたばこが飛ぶように売れ、「今年の売り上げは400万円」と聞かされた。サラリーマンの平均年収が40万円余りだった頃の話だ。

田村は振り返る。「徳島市に出て『木頭から来た』と言えば、なんぼでもお金を貸してくれた。木頭は、金持ちの代名詞やった」

伐採された木を引き取る業者には当時、木材引取税が課せられた。村が得た税収は63年度、1018万円で、歳入全体の1割を占めた。村の財政は潤った。

64年の木材輸入の全面自由化で、安価な「外材」が流通し始め、時代の時計はカチリと音を立てた。

76年秋、台風の豪雨で6人が死亡する大規模な山崩れが起き、復旧工事が急ピッチで始まった。4年後、林業からの転職が進んだ建設業の就業人口は林業を追い越した。その結果、国が村内で計画する「細川内(ほそごうち)ダム」への期待も高まったのだ。

だが、建設業は今、公共事業の削減で苦境と向き合う。木頭にある5業者の受注額は、98年度の17億円から、2012年度には7億円に激減。県建設業協会那賀支部参事の川原武志(69)は「明るい話題は何ひとつない」とこぼす。

「平成の大合併」も、大きな変化をもたらした。

村は05年、那賀川下流の4町村と合併した。役場の本庁がある最下流の旧鷲敷(わじき)町まで、車で1時間。「木頭支所」は地域振興室だけになり、かつて60人以上いた職員は10人に減った。

副支所長の北岡仁志(56)は「決定権もマンパワーもなくなり、地域のことを地域で決められなくなった」と複雑な心境を明かす。

木頭にある2小学校と1中学校の児童・生徒数は現在、57人。唯一の高校分校は05年春に廃校となり、今年、中学を卒業する6人全員が木頭を出ていく。

産業が廃れ、人材も減る現状に、かつて「ダムに頼らない村づくり」を進めた元村長の藤田恵(75)は「たった一人でいい。『村を活気づけたい』とがむしゃらになれる人間がいれば、流れは変わるはず」と話した。そして、こう続けた。

「過疎化は何十年も前から続いてきた、この国の構造的な問題。私らがじたばたしても、変わらんかった。止めるんは、ダムよりずっと難しかった」(敬称略)

少子化により、日本の人口は2008年の1億2808万人をピークに減少に転じた。地方では、大都市圏への転出が人口減に拍車をかけている。

民間の研究機関「日本創成会議」は昨年5月、2010~40年の30年間に、全国の半数の市区町村で、出産の中心世代となる20、30歳代の女性が半分以下に減るとの推計を発表。これらの自治体を「消滅可能性都市」と呼んだ。人口流出の要因として、働く場が少ないことを挙げた。

那賀町の若年女性数は、522人(10年)から85人に減ると推計され、減少率は83.7%。四国で最も高く、全国でも13位だった。全国ワースト1は、群馬県南牧(なんもく)村の89.9%だった。



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村の面積の98%は山林。人口が現在の3倍の4115人とピークだった1965年当時、基幹産業の林業は、国の「拡大造林」政策で活況に沸いた。補助金を受け、建材やパルプ用の木材を大量に切り出し、スギやヒノキの苗を植える。それでも木材は不足し、どんどん値上がりした。

林業に従事した元村議の田村好(よしみ)(84)は、当時の様子を鮮明に覚えている。

どの山も人手が足りず、他県から出稼ぎが押し寄せた。宿舎となる旅館は10軒ほどあり、映画館もあった。父が営む商店では酒やたばこが飛ぶように売れ、「今年の売り上げは400万円」と聞かされた。サラリーマンの平均年収が40万円余りだった頃の話だ。

田村は振り返る。「徳島市に出て『木頭から来た』と言えば、なんぼでもお金を貸してくれた。木頭は、金持ちの代名詞やった」

伐採された木を引き取る業者には当時、木材引取税が課せられた。村が得た税収は63年度、1018万円で、歳入全体の1割を占めた。村の財政は潤った。

64年の木材輸入の全面自由化で、安価な「外材」が流通し始め、時代の時計はカチリと音を立てた。

76年秋、台風の豪雨で6人が死亡する大規模な山崩れが起き、復旧工事が急ピッチで始まった。4年後、林業からの転職が進んだ建設業の就業人口は林業を追い越した。その結果、国が村内で計画する「細川内(ほそごうち)ダム」への期待も高まったのだ。

だが、建設業は今、公共事業の削減で苦境と向き合う。木頭にある5業者の受注額は、98年度の17億円から、2012年度には7億円に激減。県建設業協会那賀支部参事の川原武志(69)は「明るい話題は何ひとつない」とこぼす。

「平成の大合併」も、大きな変化をもたらした。

村は05年、那賀川下流の4町村と合併した。役場の本庁がある最下流の旧鷲敷(わじき)町まで、車で1時間。「木頭支所」は地域振興室だけになり、かつて60人以上いた職員は10人に減った。

副支所長の北岡仁志(56)は「決定権もマンパワーもなくなり、地域のことを地域で決められなくなった」と複雑な心境を明かす。

木頭にある2小学校と1中学校の児童・生徒数は現在、57人。唯一の高校分校は05年春に廃校となり、今年、中学を卒業する6人全員が木頭を出ていく。

産業が廃れ、人材も減る現状に、かつて「ダムに頼らない村づくり」を進めた元村長の藤田恵(75)は「たった一人でいい。『村を活気づけたい』とがむしゃらになれる人間がいれば、流れは変わるはず」と話した。そして、こう続けた。

「過疎化は何十年も前から続いてきた、この国の構造的な問題。私らがじたばたしても、変わらんかった。止めるんは、ダムよりずっと難しかった」(敬称略)

少子化により、日本の人口は2008年の1億2808万人をピークに減少に転じた。地方では、大都市圏への転出が人口減に拍車をかけている。

民間の研究機関「日本創成会議」は昨年5月、2010~40年の30年間に、全国の半数の市区町村で、出産の中心世代となる20、30歳代の女性が半分以下に減るとの推計を発表。これらの自治体を「消滅可能性都市」と呼んだ。人口流出の要因として、働く場が少ないことを挙げた。

那賀町の若年女性数は、522人(10年)から85人に減ると推計され、減少率は83.7%。四国で最も高く、全国でも13位だった。全国ワースト1は、群馬県南牧(なんもく)村の89.9%だった。


【2015/01/04 01:40】 | 新聞記事から
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