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「ダム建設の時代は終わった」by米国内務省開拓局長官ウィリアム・ピアーズ
◆山形県が進める「穴あきダム計画」の大穴屈指の清流でゴリ押しされる治水協議の澱んだ内幕
相川俊英の地方自治“腰砕け”通信記

ダイヤモンド・オンライン -
http://is.gd/hwOSVJ

最上小国川流域の治水対策協議に見る
官主導「合意形成」の巧妙なやり口


 行政が主催する会合などを傍聴し、官主導による「合意形成」の巧妙なやり口を見せつけられることがある。あまりの巧者ぶりに、背筋が寒くなることさえある。

 行政側は膨大な資料と難解な専門用語を駆使し、ひたすら自らの主張を繰り返す。自分たちで選別した学者の意見のみを拾い上げ、その裏付けに利用する。異論は排除し、一切、耳を傾けない。

 その一方で、地域振興策といった甘い囁きも忘れない。そうした餌を撒くタイミングも絶妙で、相手側に諦めムードが漂い始めた頃にそっと提示する。

 相手が実行への担保なき振興策につられて土俵に上がってくれば、勝ったも同然となる。行政への異論は時の経過とともに勢いを失い、反対を叫ぶ声は消えていく。こうして官製の「合意形成」がものの見事に完成する。日本の行政のお家芸とも言える。
山形県新庄市で4月29日、「最上小国川流域の治水対策等に関する協議」が開かれた。出席者は、山形県と小国川漁業協同組合(山形県舟形町)、地元自治体(最上町と舟形町)関係者など計25名。この日で3回目となる会合は2時間半に及んだが、治水対策等に関する協議とは名ばかりだった。県が建設を推進する最上小国川ダムの説明に終始した。

 漁協側から「こちらの意見(ダムによらない治水)も検討するということで協議が始まったはずだが、ダムの説明に尽きてしまった。非常に残念だ」(青木公・理事)と、県の姿勢を批判する意見も飛び出した。

 しかし、そのときすでに会議は最終局面に至っており、流れは変わらなかった。それどころか、県側は漁協側の指摘を完全に無視したまま、ある決断を迫ったのである。

 山形県はこの日、「これまでのダムのない川以上の清流・最上小国川を目指し総合的な取り組みを進める」として、流域の漁業振興策なるものを初めて提示した。ダム建設に同意することへの露骨な見返り策である。県側は最後の発言の場で、「(ダム案と振興策についての)漁協としての判断を示していただきたい」と漁協に回答を要求したのである。

 会場の視線が小国川漁協の高橋光明組合長に集中した。立ち上がってマイクを握った高橋組合長は、「(ダム案の賛否を)総代会に諮ることを理事会で提案する。総代会後に県にご返事を申し上げたい。(ダムに)反対の立場を通してきた沼沢(前)組合長の思いをくんで今日までやってきましたが、一段階上げて、組合員に賛否を問いたいと思います」と語った。

 こうして協議はこの日をもって終了することになり、ダム建設に反対してきた漁協側が6月8日の総代会でダムへの賛否を改めて問うことになった。

ダムのない屈指の清流・最上小国川で
ゴリ押しされる住民不在のダム建設計画


 山形県北部を横断し、日本海に注ぐ最上川。その東北端の支流が最上小国川で、ダムのない日本屈指の清流として知られる。天然アユの宝庫で、釣り客は年間3万人にも上る。

 そんな最上小国川の上流部に、ダムを建設する計画が持ち上がった。1980年代のことで、当初の想定は利水や治水、発電といった多目的ダム(事業主体は山形県)だった。

 ダム計画はその後、水需要の変化により利水の必要性が薄れたため、治水目的のみに縮小された。治水の対象地域は、1974年に床上浸水61戸の洪水被害に見舞われた温泉地。ダムサイト予定地から2キロほど下流にある赤倉温泉(山形県最上町)で、1998年と2003年にも床上浸水が発生したところだった。
赤倉温泉は川沿いギリギリに旅館が立ち並ぶ特殊な地域。県は「河川整備ができない」と結論づけていた

 赤倉温泉は川沿いギリギリに旅館が立ち並ぶ特殊な地域で、県は「川を掘り下げると源泉に影響が出る」と判断し、「河川整備ができない」と結論付けていた。そして、ここを50年に一度の規模の洪水から守るためにダムが必要だと主張し、計画を立てたのである。

 だが、赤倉温泉で旅館を営む高橋孜さんは、4月29日の協議会の場で、「もとは護岸を直して欲しいというところから始まった話です。それがいつしかダムの1人歩きとなってしまった。ダムはいりません」と、当時の内幕を明かした。

 最上小国川ダムは、2007年1月に策定された山形県の河川整備計画に盛り込まれ、正式決定した。県は「環境に配慮した穴あきダム」を採用したと胸を張った。しかし、この正式決定前に県の目論見を大きく狂わす事態が生じていた。最上小国川に漁業権を持つ小国川漁協が「ダムありき」の議論を強引に進める県に抗議し、流域委員会から離脱したのである。やむにやまれぬ挙に出たのだ。さらに小国川漁協は2006年11月、ダム建設に反対する決議をあげ、ダム本体工事の着手にストップをかけたのである。 

 小国川漁協は約1000人もの組合員を抱えていた。大勢のメンバーを束ねていたのが、沼沢勝善・前組合長だった。川や魚などについて豊富な知識を誇り、人望も厚かった。そして、何よりも豊かな自然環境を後世に引き継ぐとの強い使命感の持ち主だった。任期3年の組合長に6期続けて就任し、漁協イコール沼沢組合長と言われるほどの存在だった。

代替案を提案し続ける小国川漁協
委員会を支配するダム推進派の壁


 そんな沼沢・前組合長は、「何が何でもダムはだめだ」という人でもなかったという。ダムによる治水しかあり得ないのならば、ダムも致し方ない。しかし、ダムによらない治水が可能ならば、ダムに反対するという考え方を持っていた。実際、そうした姿勢で県が開く委員会などに参加し、流域に精通する地元漁協の代表として代替案を提案していた。

 赤倉温泉での水害は、河床に砂礫が溜まって川底が高くなっていることが要因だと訴え、河道改修を求めたのである。赤倉温泉での水害は「内水被害」であり、ダムでは防げないと本質をズバリと指摘したのである。

 しかし、他の参加者のほとんどが県のお眼鏡にかなった「何が何でもダム推進」の人たちで、沼沢・前組合長の代替案は一顧だにされなかった。

「ダム推進論者に囲まれた会議や説明会の場で、沼沢さんは1人理路整然とダムによらない治水案を訴えていました。多勢に無勢で、どんなに野次られても怯みませんでした」

 こう振り返るのは、沼沢・前組合長と十数年来の付き合いだったという草島進一・山形県議(無所属)。「最上小国川の清流を守る会」の共同代表で、ダムの建設反対に沼沢・前組合長と共に奔走してきた人物だ。

 沼沢・前組合長は県の「ダムありき」の議論に驚き呆れ、流域委員会からの途中離脱に踏み切らざるを得なくなった。以来、小国川漁協が県との治水に関する協議の場につくことはなかった。

 その後政権交代が起き、全国的にダム事業の検証が実施されることになった。山形県も最上小国川ダムを俎上に上げ、「有識者」などによる検討を始めた。その人選は県が行い、県のお眼鏡にかなった「有識者」が勢ぞろいした。議論の中身はともかく、検証のための手続きだけはきちんと踏まれていったのである。

 そして2011年2月。山形県は最上小国川流域の治水対策として「穴あきダム」が最良との結論を下した。ダム案(県の試算では約132億円)が河道改修案(約158億円)や放水路案(約164億円)などと比べ最も安く、環境への影響も少なく治水対策として最良であるとした。

 こうして2011年6月に、最上小国川ダム事業の継続が正式決定し、県に残されたハードルはただ1つとなった。漁業権を持つ小国川漁協の同意である。そのためには漁協を協議の場に引っ張り出さねばならない。有効な策はないかと県が思案を重ねたのは、想像に難くない。あらゆる策を講じて何としてもとなったはずだ。

 2012年12月に二度目の政権交代がなされ、国土強靭化が最重要施策に浮上した。アベノミクスによる財政出動も加わり、防災・減災への税金投入が広がった。

 最上小国川ダムの本体工事着工を目指す山形県にとって、ポイントとなる時期が迫りつつあった。それは、小国川漁協を含む県内17漁協の漁業権の更新である。漁業権は知事によって各地域の漁協に認可され、期間は10年。その漁業権が2013年末で切れることになっていた。知事は漁協から免許の更新申請を受けた場合、内水面漁場管理委員会に適格性を諮問し、その答申を経て交付することになっている。

 山形県は2013年12月17日の県議会農林水産常任委員会の場で、衝撃的な答弁をした。小国川漁協だけ漁業権の更新が認められないこともあり得ると示唆したのである。この発言が翌日の地元紙に大きく報じられ、漁業権の更新問題が初めて表面化した。

漁業権の更新不許可をちらつかせ
行政が漁協にダム建設を無理強い?


 実は、小国川漁協の沼沢組合長らは、12月の初め頃から厳しい立場に追い込まれていた。漁業権の更新をめぐり、県農林水産部幹部から執拗に責め立てられていたのである。漁業権の更新には漁協側が「公益上の配慮」をすることが不可欠で、その「担保」を示してくれと迫られていた。

「担保」とは具体的に何かと問い返しても、県農林水産部幹部は「それはご自分たちで考えてください」と突き放し、漁協側が「ダムを承認しろということか」と質問すると、「そんなことはひとことも言っていません」と煙に巻いたという。

 県幹部は穏やかな口調で、ダム事業に協力しなければ漁業権を剥奪すると、事実上漁協側を脅迫していたのである。もちろん、ダム反対を理由に漁業権の更新が認められないことなど法的にあり得ないし、許されない。

 県幹部がそうした意図を認めるはずもないが、応対した沼沢組合長らが恐怖と不安の日々を送ることになったのは間違いない。もし漁業権を剥奪されてしまったら、漁協は存立し得なくなるからだ。

 漁協は不安を抱えたまま、県に回答書(12月19日付け)を提出した。「穴あきダムは環境に影響が少ない」とする県の見解への反論と「漁協してはダムによらない治水を求め続ける」という内容だった。これに対し、県は12月19日に記者会見を開き、その場で初めて「公益上の配慮」の中身を明らかにした。治水や内水面漁業振興に関する県の説明を聞くこと、県との話し合いに応じること、県が最上小国川に入って実施する測量や影響調査などを妨げないことの3点だった。

 漁協はその報道で「公益上の配慮」の中身を初めて知ったのである。2013年12月25日、内水面漁場管理委員会で漁業権の更新が認可され、県は手続きを行った。

 その同時期に、沼沢組合長は県や地元自治体などとの「最上小国川流域の治水対策等に関する協議会」への参加を承諾した。県農林水産部長の「協議はダムありきではありませんので、御理解ください」との言葉を信じてのことだった。

心労が積もり積もって自ら命を絶った組合長
県が主導権を握り、漁協にダム容認を迫る


 2014年1月28日に漁協と県などによる協議会が開催された。両者がテーブルについて顔を合わすのは、2006年以来のこと。

 会議には治水を所管する県の県土整備部だけでなく、県の農林水産部も参加した。さらに、ダム整備を熱望する最上町長など地元自治体関係者も勢ぞろいした。会議は非公開で、県側がまずダム事業を説明し、漁協側が疑問点を提示する形で進められた。主導権を県が握って離さなかった。

 山形県は協議会を3回ほど開く腹積もりで、次回を2月下旬と見込んでいた。そのための事前打ち合わせを、2月10日午後2時半から漁協側と行うことになっていた。場所は舟形町の小国川漁協事務所。県農林水産部幹部が来訪し、沼沢組合長ら3人と話し合うことになっていた。

 しかし、2回目の協議会についての事前打ち合わせは、当日になって急遽延期となった。沼沢組合長が早朝、自らの命を絶ったのである。77歳だった。

 リーダーを突然失った漁協は、新しい組合長を選出し、2回目の協議に臨んだ。ダムなし治水を検討するために有識者を委員として招聘することを提案したが、県は「議論が振り出しに戻る」と拒否。穴あきダムの説明を繰り返すだけだった。

 山形県は3回目(4月29日)の協議の場で内水面漁業の振興策を提示し、そのうえでダムへの賛否を漁協側に迫った。こうして小国川漁協は6月8日の総代会で、改めてダムへの賛否を問うことになったのである。

 はたして漁協組合員はどのような判断を下すのだろうか。それにしても山形県はなぜ、ダム建設に執念を燃やし続けるのだろうか。そして、赤倉温泉地区では「(最上小国川の)河川整備はできない」と、県が結論付けた理由は何なのか。県が河床に手を触れたがらない別の事情が浮かび上がってきた。次回はそうした点についてレポートしたい。


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山形県新庄市で4月29日、「最上小国川流域の治水対策等に関する協議」が開かれた。出席者は、山形県と小国川漁業協同組合(山形県舟形町)、地元自治体(最上町と舟形町)関係者など計25名。この日で3回目となる会合は2時間半に及んだが、治水対策等に関する協議とは名ばかりだった。県が建設を推進する最上小国川ダムの説明に終始した。

 漁協側から「こちらの意見(ダムによらない治水)も検討するということで協議が始まったはずだが、ダムの説明に尽きてしまった。非常に残念だ」(青木公・理事)と、県の姿勢を批判する意見も飛び出した。

 しかし、そのときすでに会議は最終局面に至っており、流れは変わらなかった。それどころか、県側は漁協側の指摘を完全に無視したまま、ある決断を迫ったのである。

 山形県はこの日、「これまでのダムのない川以上の清流・最上小国川を目指し総合的な取り組みを進める」として、流域の漁業振興策なるものを初めて提示した。ダム建設に同意することへの露骨な見返り策である。県側は最後の発言の場で、「(ダム案と振興策についての)漁協としての判断を示していただきたい」と漁協に回答を要求したのである。

 会場の視線が小国川漁協の高橋光明組合長に集中した。立ち上がってマイクを握った高橋組合長は、「(ダム案の賛否を)総代会に諮ることを理事会で提案する。総代会後に県にご返事を申し上げたい。(ダムに)反対の立場を通してきた沼沢(前)組合長の思いをくんで今日までやってきましたが、一段階上げて、組合員に賛否を問いたいと思います」と語った。

 こうして協議はこの日をもって終了することになり、ダム建設に反対してきた漁協側が6月8日の総代会でダムへの賛否を改めて問うことになった。

ダムのない屈指の清流・最上小国川で
ゴリ押しされる住民不在のダム建設計画


 山形県北部を横断し、日本海に注ぐ最上川。その東北端の支流が最上小国川で、ダムのない日本屈指の清流として知られる。天然アユの宝庫で、釣り客は年間3万人にも上る。

 そんな最上小国川の上流部に、ダムを建設する計画が持ち上がった。1980年代のことで、当初の想定は利水や治水、発電といった多目的ダム(事業主体は山形県)だった。

 ダム計画はその後、水需要の変化により利水の必要性が薄れたため、治水目的のみに縮小された。治水の対象地域は、1974年に床上浸水61戸の洪水被害に見舞われた温泉地。ダムサイト予定地から2キロほど下流にある赤倉温泉(山形県最上町)で、1998年と2003年にも床上浸水が発生したところだった。
赤倉温泉は川沿いギリギリに旅館が立ち並ぶ特殊な地域。県は「河川整備ができない」と結論づけていた

 赤倉温泉は川沿いギリギリに旅館が立ち並ぶ特殊な地域で、県は「川を掘り下げると源泉に影響が出る」と判断し、「河川整備ができない」と結論付けていた。そして、ここを50年に一度の規模の洪水から守るためにダムが必要だと主張し、計画を立てたのである。

 だが、赤倉温泉で旅館を営む高橋孜さんは、4月29日の協議会の場で、「もとは護岸を直して欲しいというところから始まった話です。それがいつしかダムの1人歩きとなってしまった。ダムはいりません」と、当時の内幕を明かした。

 最上小国川ダムは、2007年1月に策定された山形県の河川整備計画に盛り込まれ、正式決定した。県は「環境に配慮した穴あきダム」を採用したと胸を張った。しかし、この正式決定前に県の目論見を大きく狂わす事態が生じていた。最上小国川に漁業権を持つ小国川漁協が「ダムありき」の議論を強引に進める県に抗議し、流域委員会から離脱したのである。やむにやまれぬ挙に出たのだ。さらに小国川漁協は2006年11月、ダム建設に反対する決議をあげ、ダム本体工事の着手にストップをかけたのである。 

 小国川漁協は約1000人もの組合員を抱えていた。大勢のメンバーを束ねていたのが、沼沢勝善・前組合長だった。川や魚などについて豊富な知識を誇り、人望も厚かった。そして、何よりも豊かな自然環境を後世に引き継ぐとの強い使命感の持ち主だった。任期3年の組合長に6期続けて就任し、漁協イコール沼沢組合長と言われるほどの存在だった。

代替案を提案し続ける小国川漁協
委員会を支配するダム推進派の壁


 そんな沼沢・前組合長は、「何が何でもダムはだめだ」という人でもなかったという。ダムによる治水しかあり得ないのならば、ダムも致し方ない。しかし、ダムによらない治水が可能ならば、ダムに反対するという考え方を持っていた。実際、そうした姿勢で県が開く委員会などに参加し、流域に精通する地元漁協の代表として代替案を提案していた。

 赤倉温泉での水害は、河床に砂礫が溜まって川底が高くなっていることが要因だと訴え、河道改修を求めたのである。赤倉温泉での水害は「内水被害」であり、ダムでは防げないと本質をズバリと指摘したのである。

 しかし、他の参加者のほとんどが県のお眼鏡にかなった「何が何でもダム推進」の人たちで、沼沢・前組合長の代替案は一顧だにされなかった。

「ダム推進論者に囲まれた会議や説明会の場で、沼沢さんは1人理路整然とダムによらない治水案を訴えていました。多勢に無勢で、どんなに野次られても怯みませんでした」

 こう振り返るのは、沼沢・前組合長と十数年来の付き合いだったという草島進一・山形県議(無所属)。「最上小国川の清流を守る会」の共同代表で、ダムの建設反対に沼沢・前組合長と共に奔走してきた人物だ。

 沼沢・前組合長は県の「ダムありき」の議論に驚き呆れ、流域委員会からの途中離脱に踏み切らざるを得なくなった。以来、小国川漁協が県との治水に関する協議の場につくことはなかった。

 その後政権交代が起き、全国的にダム事業の検証が実施されることになった。山形県も最上小国川ダムを俎上に上げ、「有識者」などによる検討を始めた。その人選は県が行い、県のお眼鏡にかなった「有識者」が勢ぞろいした。議論の中身はともかく、検証のための手続きだけはきちんと踏まれていったのである。

 そして2011年2月。山形県は最上小国川流域の治水対策として「穴あきダム」が最良との結論を下した。ダム案(県の試算では約132億円)が河道改修案(約158億円)や放水路案(約164億円)などと比べ最も安く、環境への影響も少なく治水対策として最良であるとした。

 こうして2011年6月に、最上小国川ダム事業の継続が正式決定し、県に残されたハードルはただ1つとなった。漁業権を持つ小国川漁協の同意である。そのためには漁協を協議の場に引っ張り出さねばならない。有効な策はないかと県が思案を重ねたのは、想像に難くない。あらゆる策を講じて何としてもとなったはずだ。

 2012年12月に二度目の政権交代がなされ、国土強靭化が最重要施策に浮上した。アベノミクスによる財政出動も加わり、防災・減災への税金投入が広がった。

 最上小国川ダムの本体工事着工を目指す山形県にとって、ポイントとなる時期が迫りつつあった。それは、小国川漁協を含む県内17漁協の漁業権の更新である。漁業権は知事によって各地域の漁協に認可され、期間は10年。その漁業権が2013年末で切れることになっていた。知事は漁協から免許の更新申請を受けた場合、内水面漁場管理委員会に適格性を諮問し、その答申を経て交付することになっている。

 山形県は2013年12月17日の県議会農林水産常任委員会の場で、衝撃的な答弁をした。小国川漁協だけ漁業権の更新が認められないこともあり得ると示唆したのである。この発言が翌日の地元紙に大きく報じられ、漁業権の更新問題が初めて表面化した。

漁業権の更新不許可をちらつかせ
行政が漁協にダム建設を無理強い?


 実は、小国川漁協の沼沢組合長らは、12月の初め頃から厳しい立場に追い込まれていた。漁業権の更新をめぐり、県農林水産部幹部から執拗に責め立てられていたのである。漁業権の更新には漁協側が「公益上の配慮」をすることが不可欠で、その「担保」を示してくれと迫られていた。

「担保」とは具体的に何かと問い返しても、県農林水産部幹部は「それはご自分たちで考えてください」と突き放し、漁協側が「ダムを承認しろということか」と質問すると、「そんなことはひとことも言っていません」と煙に巻いたという。

 県幹部は穏やかな口調で、ダム事業に協力しなければ漁業権を剥奪すると、事実上漁協側を脅迫していたのである。もちろん、ダム反対を理由に漁業権の更新が認められないことなど法的にあり得ないし、許されない。

 県幹部がそうした意図を認めるはずもないが、応対した沼沢組合長らが恐怖と不安の日々を送ることになったのは間違いない。もし漁業権を剥奪されてしまったら、漁協は存立し得なくなるからだ。

 漁協は不安を抱えたまま、県に回答書(12月19日付け)を提出した。「穴あきダムは環境に影響が少ない」とする県の見解への反論と「漁協してはダムによらない治水を求め続ける」という内容だった。これに対し、県は12月19日に記者会見を開き、その場で初めて「公益上の配慮」の中身を明らかにした。治水や内水面漁業振興に関する県の説明を聞くこと、県との話し合いに応じること、県が最上小国川に入って実施する測量や影響調査などを妨げないことの3点だった。

 漁協はその報道で「公益上の配慮」の中身を初めて知ったのである。2013年12月25日、内水面漁場管理委員会で漁業権の更新が認可され、県は手続きを行った。

 その同時期に、沼沢組合長は県や地元自治体などとの「最上小国川流域の治水対策等に関する協議会」への参加を承諾した。県農林水産部長の「協議はダムありきではありませんので、御理解ください」との言葉を信じてのことだった。

心労が積もり積もって自ら命を絶った組合長
県が主導権を握り、漁協にダム容認を迫る


 2014年1月28日に漁協と県などによる協議会が開催された。両者がテーブルについて顔を合わすのは、2006年以来のこと。

 会議には治水を所管する県の県土整備部だけでなく、県の農林水産部も参加した。さらに、ダム整備を熱望する最上町長など地元自治体関係者も勢ぞろいした。会議は非公開で、県側がまずダム事業を説明し、漁協側が疑問点を提示する形で進められた。主導権を県が握って離さなかった。

 山形県は協議会を3回ほど開く腹積もりで、次回を2月下旬と見込んでいた。そのための事前打ち合わせを、2月10日午後2時半から漁協側と行うことになっていた。場所は舟形町の小国川漁協事務所。県農林水産部幹部が来訪し、沼沢組合長ら3人と話し合うことになっていた。

 しかし、2回目の協議会についての事前打ち合わせは、当日になって急遽延期となった。沼沢組合長が早朝、自らの命を絶ったのである。77歳だった。

 リーダーを突然失った漁協は、新しい組合長を選出し、2回目の協議に臨んだ。ダムなし治水を検討するために有識者を委員として招聘することを提案したが、県は「議論が振り出しに戻る」と拒否。穴あきダムの説明を繰り返すだけだった。

 山形県は3回目(4月29日)の協議の場で内水面漁業の振興策を提示し、そのうえでダムへの賛否を漁協側に迫った。こうして小国川漁協は6月8日の総代会で、改めてダムへの賛否を問うことになったのである。

 はたして漁協組合員はどのような判断を下すのだろうか。それにしても山形県はなぜ、ダム建設に執念を燃やし続けるのだろうか。そして、赤倉温泉地区では「(最上小国川の)河川整備はできない」と、県が結論付けた理由は何なのか。県が河床に手を触れたがらない別の事情が浮かび上がってきた。次回はそうした点についてレポートしたい。

【2014/05/14 11:01】 | Webの記事
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